メッセージ

私たちの礼拝は世界の平和に続いている

― アドヴェントを迎えて

 

先月末、国連で核兵器を法的に禁止する「核兵器禁止条約」の交渉開始決議に日本が核保有国などと共に反対をしたことが報じられました。そのニュースを耳にしながら、これまで日本の国内外で何度も語られてきた「唯一の被爆国」というメッセージが“変質”したことを感じざるを得ませんでした。

「唯一の(戦争)被爆国」―この表現は、筆舌に尽くし難い惨劇と今も続く放射能の影響による苦しみをもたらした原子爆弾投下の恐怖と愚かさを身をもって経験したがゆえに、核兵器のない世界平和を実現していくという“文脈”において繰り返し用いられてきました。1947年(昭和22)に初めて出された広島市平和宣言には、「戦争の惨苦と罪悪とを最も深く体験し自覚する者のみが苦悩の極致として戦争を根本的に否定し、最も熱烈に平和を希求する」と記されています。また日本政府も、非核三原則に関する表明の中で、「唯一の被爆国として、究極的な核廃絶と世界恒久平和の実現に向けて、日本国憲法を遵守し」非核三原則の厳守を誓約すると述べています。

しかし、日本の現状を考えるとき、「唯一の(戦争)被爆国」というメッセージは全く違った意味を帯びるようになりました。それは、自国の平和と安全のために核兵器の持つ破壊的な力と脅威(いわゆる“核抑止力”)にしがみつき、そこから抜け出せないでいるこの国の姿は、原子爆弾の威力を思い知らされた「唯一の被爆国」であるからこそのものであるということです。つまり、「唯一の(戦争)被爆国」であるというメッセージは、今や核兵器のない世界平和の実現を目指す根拠とは必ずしもなり得ないものになったということです。

国家は平和の創り主になることはできません。それが聖書の告げている真実です。私たちは、王を要求する民にサムエルが語り聞かせた主の言葉を想起しなければなりません(サムエル記上8章)。一方で、イザヤ書2章1-5節は、武器による平和ではない、人の命を奪う武器を人の命の糧をもたらす道具に作り直すところにある平和、もはや戦うことを学ばないところにある平和を描いています。そこで平和を創り出しているのは、国々の争いを裁き、多くの民を戒められる主御自身です。

私たちが覚えたいのは、そのような平和がユダとエルサレムについての幻、つまり神の民の将来の栄光として差し出されているという点です。平和の創造主である主の教えはシオンから、御言葉はエルサレムから出ると言われます。それは、主を礼拝しその御言葉を聞くために集められる民を通してのことであるということでしょう。私たちの礼拝は、世界の平和に続いているのです。その真ん中に平和の主キリストがおられるからです。(藤井和弘)

 

 

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