7月5日(日) 10:30~
説教題 「柔和で謙遜な者」 (マタイによる福音書11章25-30節)
主イエスは、「わたしは柔和で謙遜な者である」と自己紹介されました。やさしく穏やかで他人をうやまう人が周囲に受け入れられるのは自然なことです。しかし、主イエスほど、周囲からの拒絶と無理解にさらされた方はほかにいません。主イエスが示す柔和で謙遜な生き方は、人間関係を円滑すること以上に、安らぎを与えるものです。
7月12日(日) 10:30~
説教題 「実りを信じて」 (マタイによる福音書13章1-23節)
聖書の中の種蒔きは、種を蒔いてから土を耕すことから無駄が多く非効率的に映ります。それでも、農夫は豊かな実りを信じて種を蒔きます。その農夫の姿に、主イエスは御自身をたとえ、さらには私たち人間に親しくかかわる神の思いを示されます。さまざまな悲しい出来事が起こる世界ですが、神はこの地上に無関心ではありません。
7月19日(日) 10:30~
説教題 「育つままに」 (マタイによる福音書13章24-30、36-43節)
この世界はどのようになっていくのでしょう。それについて聖書は、神の計画が実現していくプロセスを明らかにしています。そこでは神の憐れみと忍耐が示されており、私たちには誠実に生きていく姿勢が求められます。目の前の問題に対処しなければなりません。けれども、世界の終わりを見通すほどの視座が欠かせません。
7月26日(日) 10:30~
説教題 「万事が益となる」 (ローマの信徒への手紙8章28-30節)
「終わりよければすべてよし」と言われます。でも、「終わりよければ」とは何を指し、さらには誰がそれを決めるのでしょうか。また、終わりにいたる過程やそこでの問題はまったく無視されるものなのでしょうか。聖書にも、「万事が益となるように共に働く」という表現があります。そこに身をおいて生きるとはどういうことでしょう。
教会は初めてという方も歓迎いたします
人間という存在
旧約聖書の創世記には、最初の人であるアダムに、神が「人が独りでいるのは良くない」と言われ、彼に合う助ける者を造られたという記事が出てきます。ここから、神は結婚の人生を定めておられるとか、アダムと助ける者との“上下関係”を考えることは正しくありません。それよりも、人という存在は「共に生きる」存在であり、そのところでの喜びも悲しみも「分かち合う」存在であることを聞き取ることの方が大切であると思われます。
近代以降、人間は、さまざまな関係から独立した「個人」として捉えられるようになりました。そして、今では、人生の主役は自分自身であり、どう生きていくかはその人の自由に任せられているというのが当然のこととされています。その一方で、自分のために生きることが十分に許されている中で、人はどこかに属して生きることを欲しています。そして、自分ではない誰かの存在をみずからの支えとし、自分のためではなく誰かのために生きることに幸福をおぼえていることも確かではないでしょうか。それは、裏を返すなら、人は自分のためだけに生きる存在ではないということです。むしろ、自分のためにだけ生きることに疲れ、むなしさを覚える一方で、他人とのつながりを求め、そこで嬉しいことも辛いことも共感することにしあわせや安らぎを見いだし始めているように思います。
問題は、どのようなつながりや“共同体”に所属するのかということだと思います。人々が平和と互いの信頼の中で過ごすことができますように。 (牧師 藤井和弘)
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