11月3日(日) 10:30~
説教題 「一歩前へ」 (マルコによる福音書12章28-34節)
どんな人の生涯も生きている限り、いまだ途上にあります。「途上にある」とは、自分にはなお成長の可能性があるということであり、今の自分を絶対化しなくてもよいということです。私たちの人生は、「ここまで自分はたどり着いた」という満足と、「いや、もう一歩」という向上心が交錯するところなのでしょう。あなたは、どちらを取りますか。
11月10日(日) 10:30~
説教題 「新しい誕生」 (コリントの信徒への手紙一15章50—58節)
“終活”ということが言われて久しくなりました。そこには、残された自分の人生を有意義に過ごしたいという思いがあるのでしょう。復活を信じるキリスト教信仰にとって、死は終わりではなく、新しい命への“過ぎ越し”とされています。そこにおいて終活は、出産と同じく新しい誕生への準備でもあるのです。皆さんは、どんな準備をしますか。
11月17日(日) 10:30~
説教題 「世界の終わり」 (マルコによる福音書13章24-32節)
“世界の終わり”について、大勢の人たちが語ってきました。“世界の終わり”は、恐ろしいものなのでしょうか。そこでは、あらゆるものが無となってしまうのでしょうか。聖書は、世の終わりが確実に訪れると語る一方で、それは待ち望むべきものであると告げています。そこに、“今”という一瞬一瞬を誠実に生きる姿勢が形造られるのです。
11月24日(日) 10:30~ 大人・子ども合同礼拝
説教題 「私たちの創造主」 (コヘレトの言葉12章1-14節)
「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ」と、聖書は呼びかけます。自分が神に造られた作品であること、そして、そのことを若い内に心に留めることの理由は何でしょうか。この国に住む人は、自己肯定感が低いことが確かめられています。それは、この社会が創造主に心を留めることを必要としていることを意味しています。
教会は初めてという方も歓迎いたします
豊かに生きるとは
ある金持ちの畑が豊作に恵まれます。この人は、さらに大きな倉を建てて、多くの穀物や財産をしまい込みます。そして、いっぱいになった倉を目の前にして、「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができた」と言って、安心するのです。けれども、次のような神の言葉がこの人に臨みます。「今夜、お前の命は取り上げられる」。
聖書に出てくるこのたとえを聞くところで思い出す落語のお話があります。縁日で、子どもが亀を買うのですが、翌日その亀は死んでしまいます。そこで大家のところへ行った子どもは尋ねるのです。「亀は万年生きると言われるのに、なぜ一日で死んでしまったの?」。すると、大家はこう答えたというのです。「それは、ちょうど昨日が、亀の万年目であったのだ」と。
亀は万年生きると聞いた子どもは、亀を買ったその日から万年と数えたのでしょう。けれども、それまでにも亀は生きているのですから、勝手な思い込みにすぎないのです。同じように、自分の倉にある多くの穀物や財産を見た金持ちは、これから先何年も生きていけると考えたのですが、人を生かすいのちは、つねに与えられるものであるという真実が見えなくなっていたのです。
私たち人間は、いつの間にか、「自分のいのちの主人は自分である」という思いにとらわれやすい存在です。しかし、それは自分のいのちを本当の意味で豊かに生きていることにはなりません。まず、そのことに気づくことが大切であるように思います。
(牧師 藤井和弘)
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